sumatra and cinnamon

私の好き勝手な空間。想いと知恵と発見をつらつらと。

相変わらず、今日も呼吸して。①

 

今日も、低くて無調律な呻き声が、1日の始まりを告げる。

 

朝、目を開けると、高原の朝のような、静かな一瞬が必ずとしてある。耳の中に空気のビー玉が詰まって、音が聴こえなくなることに慌てずに、鼻から息を吸うと、目がハッと現実を見始める。そうしてやっと、少しずつ、部屋の外から忙しい朝の音が聞こえてくるのだ。

 

週に一度の洗濯により、清潔に保たれた白いレースカーテンからは、朝日が線になってこぼれ出て、柔らかく揺れている。クーラーのファンは、首を上げたり下げたりと、私が眠っている間もずっと働いていたのかと思うと、労いの言葉を、思い浮かべる。壁に掛けられた、孫の書いた「おばあちゃんの絵」は、相変わらず微笑むのを止めない。

 

ゆっくりと、私の中の歯車が回り始める。さあ、動き出そう。今日も私には幾つもの役目がある。5人姉妹の長女だった私は、ここでもしっかり者のお姉さんだ。まずは、朝ごはんのおしぼりを、濡らして絞ってと、準備しなくてはいけない。誰よりも早くリビングにいて、ぬっくりと起きてきた利用者さんたち1人1人におはようを言うのも大切な役目だ。どの利用者さんも、誰かがおはようと迎えてくれる朝があれば、今日1日の自分を信じることができるだろう。そう思うと、やはりこの役目を疎かにはできまい。

 

 「おはようございます。」

部屋を出ると、小山さんの変調した高い声が聞こえてくる。無機質な白熱灯が、少し眩しい。

「おはようございます。」

琴を弾くような、ポロンポロンとした私の声が、今日もしっかりと聴こえる。

 

「あら、お買い物ですか?遠くまでねえ。」

「安田さん、おはようございます。お買い物には、行きませんよ。」

認知症で、意味のない言葉を並べる安田さんに対しても、丁寧な対応をしたいといつも心がけている。敬意を払おうとする意識が、ここでは大切だ。

「あらそうなの、新しい歯医者さんができたって言ってねえ。」

安田さんは、更に意味のない返事をして、仏のように微笑んだあと、ああ、そういえばと言ったように赤ずきんちゃんの絵本に目を落とした。ああ、そういえば、私もおしぼりの準備をしなければ。

「小山さん、おしぼり準備しますよ。」

と言うと、

「いつもありがとうございますねえ。」

と、私の2倍くらいの大きな声で、2倍くらいにゆっくりとそう言って、おしぼりと水が入った桶を机の上置く。こんなに、ゆっくりと話しているから、1日も2倍くらい早く過ぎていくのかもしれないと、ふと思った。

 

水を張った桶から、ひとつまみの指でおしぼりを取り出す。冷たい水に3本の指が触れた時に、冬の朝を思い出すのが好きだ。まだ薄暗いうちに、洗濯機を回して、朝食をつくった、あの朝たちを思い出す。窓を開けるガラガラという音が、白い靄の澄み渡る朝に生まれる時、私の女としての矜持が満たされるのだった。

 

今日は、4月23日木曜日です。

壁に貼られた、大きな日付表が私を一気に今年の春へ戻す。周りには、ピンク色の画用紙が桜の形に切り取られて飾られている。私は、心の中でその文字を読みながら、ひたひたのおしぼりを3度折りたたみ、両手でぎゅっと絞った。指と指の間から、冬の朝の冷たい水が溢れでる。さっきまでイソギンチャクのように、優しく揺れていた白い糸たちが、口を閉ざされたかのように生気を失った。水滴の1つが、腕を伝って、肘にまでたどりついた。慌てて腕まくりをして、次のおしぼりを絞り始める。

おしぼりは、全部で8枚ある。利用者さんは、6人だが、梅原さんと前川さんは、食べこぼしが多く、2枚ずつ使うので、全部で8枚だ。慣れた作業だか、1つ1つ丁寧に絞っていく。いつの日か、小山さんは、この作業で指の筋肉が鍛えられると言っていた。鍛えられると言ってもこの年になると、衰えの進行を多少遅くできるだけのことだ。しかし、鍛える活動は、色々な面で行われる。中でも、折り紙を折ったり、ビーズで腕輪を作ったりと、指の筋肉を鍛えるものが多いような気がする。そんな活動をしていると、ふと、私は結局この指をなんのために鍛えているのだろうと考えてしまうことがある。そして、指ばかりが元気になってしまう姿を想像すると、奇妙な気がして考えるのをやめるのだった。

 

「小山さん、おしぼり置いておきますね。」

「みどりさん、いつもありがとうございますね。」

おしぼりの作業が、終わる頃には、他の5人の利用者さんも起き上がって、席についている。生駒さんと、古倉さんは、いつも通り、昨晩の寝つきの善し悪しを報告し合っている。梅原さんは、朝ごはんが楽しみで落ち着かないようで、引き戸の淵を掴んで、遠くからガラガラと運ばれてくる配膳を、見つめている。私はというと、おしぼりを8枚絞ったせいで、少し疲れてしまった。冷えた手をお尻の下に敷いて、朝ごはんを待った。